第一段 橘直幹 、兼官を望み申文を書く
村上天皇の天暦年間(九四七~九五七)のころ、
が、内実は苦しく、たとえば、あの中国・春秋時代の
少しでも家計の助けにもなればと、たまたま官職に空きのある



第二段 直幹の申文に、村上天皇機嫌を損ずる
直幹は、申文の草案ができあがると、小野道風に清書を頼んだ。さっそくながら、
ところが、申文の初め近くに、「拝除之恩惟一。栄枯之分不同。依人此而異事」という文言をみると、とたんに顔を曇らせた。なに、「人により事異なり」とな。直幹め、生意気をいいおるわ。といい、手にした申文を床にたたきつけた。にわかに変わる、帝の

第三段 愁訴の情を書き連ねる直幹の申文
直幹の申文の内容
「直幹、謹んで先例を
第四段 内裏炎上に際し、帝、直幹の申文の安否を問う。また、内侍所の神鏡、紫宸殿の桜にかかる
その後、天徳四年(九六〇)九月二十三日の子刻(午前零時)に内裏で出火があった。帝は、難を逃れて中院の御所に渡御された。清涼殿の調度類も運びだすことができた。歴代伝世の重宝はむろんんのこと、
が、ふと思い出したように、直幹の申文は取り出したであろうな、と問うた。その申文ではケチがついて、だれもそ れに触れることは禁句にしていたのに。ところが、いま、帝のほうからそれをお尋ねになる。なんと、ありがたいことではないか。
そのときのことである。火事が左衛門の陣(建春門)から起こった。
感涙にむせびながら、実頼は右のひざをつき、左の袖を広げて申した。「昔、天照大神は百王を守護しもうた。その御誓言に疑いなくば、どうか神鏡を実頼の袖に移してください、」と。
そのことばをいいも終わらぬうちに、鏡はその袖の中に飛んで入った。実頼は、さっそく太政官の朝所へ安置することができた。