List of Eshi-no-soshi

絵師草紙諸段一覧

番号現代文
1

絵師一家、知行の宣旨に喜ぶ 

朝恩(ちょうおん)なれば忝(かたじ)けなく、悦事(よろこぶこと)限りなし。此由(このよし)家に帰りて語りければ、妻子眷属(さいしけんぞく)ども走り集ひて、いまだ未倒の土貢(どこう)の納所(なっしょ)を求め認(したため)むる有様、笑ひ罵る声々、天地を響かして、物音も聞こえ侍らずぞありし。然(き)る程に、老母をはじめとして、疎(うと)からぬ輩と賀酒(がのさけ)を飲みけるが、早や酔(え)いぬれば、乱舞一声に及ぶままに、次第に飲み叱りつつ、酒又取り寄せけるが、使も酔いぬれば、縁の破れに足を入て倒れければ、酒もこぼしぬ。使(つかい)しかねて水を入加へて出だしたりけれども、皆酔いぬる心地には、善悪を弁(わきま)へずして、其日は朝(あした)より飲み暮らし侍りけるとかや。

2

ぬか喜びの宣旨の内容

次日(つぎのひ)は急ぎ人拵(こしら)へつつ、田舎へ下遣(くだしつか)はしぬ。然る程に雲煙(うんえん)を凌ぐ海路も、月日過ぐれば、心許ながりつる。雁(かり)の使も帰り来り、先(まず)嬉しくて文(ふみ)を開き見るに、所の有様と覚しくて、土民の武威を高ずる次第、先使(せんし)が取りて年貢のなき事ばかりを書きてこの外は何事も見えざりければ、大方(おおかた)正躰(体)なきに、いよいよ煙絶え行く家の有様、人の跡なき庭の景色、何に命のかかるべきなれば、従類も散り行きて自(おのずか)ら留まる者は、子を思ふ老母の悲しみに惑へる。夫を慕ふ賎婦(せんぷ)の別れを嘆くなどなれば、皆飢を忍び、貧しきを忘て、残ゐ(のこり)たり。この輩(ともがら)を見るに、眼も暮るる心の内、ただ推し量られたり。

3

絵師の愁訴①

て馳帰りけるが、折節(おりふし)絵の事ども奉行し給(たまい)て、便よく侍りければ、当寺の上卿(しょうけい)の弟(だい)に参りて、「御所様の御哀憐の外は、頼む方なき身の有様を申入ける事どもは、朝恩も侍らず。又、本自(もとより)私の領とて、針を立つる所も知行(ちぎょう)なし。只、古絵本、旧記などをぞ家に伝え侍る。されば明け暮れ顔子一箪(がんしいったん)の食(し)忍び難く、原生百結(げんせいひゃっけつ)の衣恥ずるに足りぬべし。

4

絵師の愁訴②

この思ひ、少年の昔より強仕(きょうし)の今に及ぶまで、寝ても覚めても休む事なし。然れども稽古日を重ね、奉公年を経ぬる上、旧院他ニ異に、召仕侍りしかば、君も如何でか捨てさせ給ふべきに、適(たまたま)の 朝恩、故なく召されぬる事、面目を失うのみにあらず。且(かつ)は宮古(都)に跡を留め難く侍り。させる罪なき身の沈果(しずみは)てなば、既に一流の威(滅)亡となりなんこそ、不便なれ」と、忠実(まめ)やかに悲涙を流しつつ申しければ、上卿急ぎ 奏給ける。 勅答には、哀れみ思し召されけるにや、本の伊州を還給(かえしたまう)べき申うけ給(承)るこそ、先畏(まずかしこまり)覚えしが、其時重ねて申入けるは、「此所あまりに遥かなる上、又興行の沙汰も、身の上なくては、道行き難き間、当時、此地に命を懸けて奉公し難く侍り。

5

絵師の愁訴③

同じくば、今少し近き小屋に立替て下されなんや」とて、さもありぬべき所々、数多(あまた)記して参らせければ、御案(ごあん)あるべしとばかりうけ給はりて、過ぎにし秋の末つ方より、春も既に半ばになりぬるにや、愁(うれい)の涙も猶色添ふ心地すれば、沈み果てぬるにこそと、心細きままに、栄花なき身に、盛者必衰も知られ、又妻子珍宝もこの世、後の世の侶(とも)にあらずと聞きしかば、心強くも思ひなりて、さても果つべきならば、あらまほしくて、構えて三蜜の法水を汲みて、鎮めに五智の頂に灌べしとて、一人の子をば真言修行の霊場を尋ねて、遣はし置きぬ。然る程に憂かりし年(歳)は暮れて、新玉の春にも成りぬれば、いよいよ風も折知り、浪も時ありて、治まれる 御代は行く末久しく、栄えゆる国の、すめる恨みを、一人残すべきにあらねば、身づから(自ら)鳥の跡を告げつつ、微かに思ふ心を述ぶと雖(いえど)も、我道の業なれば、真の有様を後策(素 こうそ)に著はして、同洩らし申すなるべし。